1. 静まり返った廊下と不気味な響き
鏡の世界に取り残されたレオ、ナオキ、ソウタは「七不思議」を手がかりに帰還の道を探し始めた。次に足を運んだのは、かつて夜ごとに“勝手にピアノの音が響く”と噂されていた音楽室。もちろんここは、鏡の世界でも同じように存在しているはずだ――そう信じて、三人は学校の二階へ向かう階段を上がっていく。
廊下は昼夜の区別がつかないほど薄暗く、外からの光は鈍く色を失っていた。壁にかけられた掲示物の文字は左右反転し、タイトルや日付すら判別が難しい。それでも見覚えのある音楽室の扉が視界に入ると、三人は思わず足を止めて、顔を見合わせる。
「本当に……鳴るのかな、ピアノ」
ソウタが声を落として尋ねる。かすかな声が廊下に吸い込まれていくが、返事をする者はいない。代わりに、どこからともなくギィ……と床の軋む音が響いた。レオは手をグッと握りしめ、意を決したようにうなずく。
「鳴るかどうか確かめないと、先に進めないだろ?」
ナオキは唇を引き結び、懐中電灯を握り直す。そっと扉に手をかけると、金属のきしむ音がしてわずかに開いた。そこから一筋の冷気とともに、どこか切なげな響きがわずかに漏れてくる。
三人は緊張の面持ちで扉を押し開けた。鏡の世界の音楽室は、現実世界で見たとき以上に、荒れ果てたような雰囲気を漂わせている。埃まみれの譜面台、斜めに倒れた椅子、そして奥に鎮座するアップライトピアノ。だが、何かが違う。どこかからかすかに音がする――そう、まるで誰かが鍵盤をほんの少しだけ叩いているような、断続的な旋律が聞こえるのだ。
2. かすかな旋律の正体
「聞こえる……?」
ソウタは怖ばった表情で耳を澄ます。ナオキも黙ったまま懐中電灯をピアノへ向け、レオは息を潜めながら歩を進めた。ギシギシと床が軋むたびに、三人の心臓が跳ね上がる。
ピアノの近くまで来ると、そのかすかな旋律は、確かに音楽室の中から響いているとわかる。ただし、どこか不安定で、優しいような悲しいような、判断のつかないメロディだった。曲というよりは、誰かが探るように鍵盤を叩いている――そんな印象だ。
「まさか、本当に誰かいるのか?」
ナオキが小声で言った瞬間、かすかな旋律がふっと止んだ。懐中電灯の光を投げかけても、ピアノの前には誰の姿もない。もちろん椅子が動く気配もない。だが、先ほどまで確かに聞こえていた音が、一瞬で消えてしまったのだ。
「……怖いけど、近づくしかないか」
レオは肩で息をしながら覚悟を決め、ピアノにそっと手を伸ばす。埃まみれの黒い塗装を指先で払うと、黄ばんだ鍵盤が顔を出した。思いきって鍵盤を叩いてみると、乾いた音が不協和音を立てるだけ。先ほどの“旋律”とはまったく違う響きだ。
「誰か、隠れてるわけじゃないよね……」
ソウタが心配そうに周囲を見回す。ナオキは空気の変化を感じ取ろうと、静かに呼吸を整えている。レオはその場に立ち尽くし、「どうなってるんだよ……」と悔しそうに呟いた。
3. かつての少女の残響?
一向に進展のないまま、三人は部屋をぐるりと探索する。壁には古い楽譜が貼られているが、左右反転した文字が読みづらい。床には古いチョークや消しゴムの破片らしきものが落ちており、レオが足で転がすとカラカラと虚しい音を立てる。
ナオキはしばらく黙っていたが、ふと何かを思い出すように口を開いた。
「……そういえば、現実の世界でも“夜の音楽室には少女の幽霊が出る”って噂があったよな。最後に弾きたかった曲が弾けずに、この世に残っているって」
ソウタはびくりと身を震わせる。幽霊という単語が、まだ明るい学校の教室なら笑い飛ばせるかもしれないが、この鏡の世界では妙にリアルに感じられた。
「ここにも……その“幽霊”がいるってこと?」
「わかんない。でも、さっきの旋律は何か意味があるように思えた。単なる風や建物のきしみじゃ説明できない音だったし」
ナオキは眼鏡の奥で真剣な眼差しを向ける。レオもその言葉に同意するように頷き、「もし幽霊がいるなら、話を聞くしかない」とまで言い出す。ソウタは「や、やめてよ……」と反論しようとするが、二人の勢いに押されてしまう。
4. 不意に響く鍵盤
そんな三人の会話をよそに、唐突に鍵盤の音がひとつだけ響いた。まるで“呼び声”のように、高いドの音が音楽室に反射する。三人は慌ててピアノのほうを見るが、やはり誰もいない――しかし、今まさに音が鳴った痕跡は残っているかのように、鍵盤がわずかに揺れているように見える。
「い、今の……?」
ソウタが声を震わせると、レオは慎重に一歩前へ進み、ピアノの前へ立つ。ナオキも後ろから懐中電灯を当てるが、人の姿はどこにもない。代わりに、譜面台に一枚の紙が置かれているのに気づいた。埃を払いながら手に取ると、楽譜――いや、部分的に破れていて、曲名などはわからない。
「何だろう、これ……」
レオは楽譜を広げようとするが、左右反転の世界で印刷された文字が読み取りづらく、加えて破れや汚れもひどい。ナオキが少し覗き込むが、「いくつかの音符の部分が欠けてるみたいだな」と残念そうに言う。そこへソウタが、どこか苦しそうな表情で口を開いた。
「もしかして、この曲を完成させれば……音の正体がわかるんじゃないかな……?」
根拠は薄いが、三人にとってはひとつの希望だった。ナオキはうなずきながら、欠けた楽譜をどうにか補完できないかと考え始める。レオは楽譜を握りしめ、そのまま譜面台を凝視する。誰かの手垢が残っているのだろうか、微妙に指の形らしき跡がついているようにも見えた。
「やっぱり、“誰か”が弾いてるのか……」
思わずそう呟いたとき、背後でソウタが小さく悲鳴をあげた。振り返ると、部屋の隅にある姿見用の小さな鏡が、ひび割れたまま立っているのが見える。通常の音楽室にはなかったはずの鏡だが、鏡の世界では様子が違うらしい。鏡の縁には埃がこびりついており、ひどく歪んでいる。
「壊れかけの鏡……。まさか、ここにも“映るはずのないもの”が出たりするのか?」
ナオキは不安げに目を細めるが、レオは毅然とした表情で鏡に近づく。先ほど踊り場の鏡に飲み込まれた恐怖が蘇るが、それでも確認しないわけにはいかない。一応覗き込んでみるが、自分たち三人の姿が逆さまに映っているだけ――今のところ、特別な変化は感じられない。
5. 「それな」で踏み出す覚悟
しばらくして、ピアノの音は完全に止んでしまった。あれだけ不気味に響いていた鍵盤の気配は消え、部屋を支配するのは埃と沈黙だけ。しかし、三人ははっきりと感じていた。何かがこの音楽室に存在し、自分たちの動きを見ている――。
「この譜面……きっと大事な手がかりになるよ。破れた部分を何とか補完しよう」
ナオキが決断を下すと、レオとソウタも「それしかない」と頷く。鏡の世界で徘徊している謎の“音”の正体を突き止めなければ、先には進めないし、七不思議の解明も難しいだろう。レオは楽譜を大事に抱え、ソウタは震えつつも決意の眼差しをする。
「……ちょっと怖いけど、大丈夫だよね? 三人なら……」
「それな!」
声を重ねると、三人の間にかすかだがいつもの一体感が生まれる。恐怖や戸惑いがすべて消えたわけではない。しかし、ここで踏み出さない限り、何もわからないまま鏡の世界を彷徨うことになってしまう。
レオはピアノの蓋をそっと閉じ、譜面台に欠けた楽譜の断片を戻した。ナオキが明かりを当て、ソウタは埃を払いながら次の手段を考える。ピアノを弾いている“誰か”――幽霊なのか、忘れられた生徒の思いなのか。その姿を確かめるために、三人は行動を起こすときが来た。
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