――朝の潮騒が響く。
遠くから聞こえるのは、小さな波が浜辺に打ち寄せる音。
俺――**相沢航平(あいざわ・こうへい)**は今日も、通学路にある土手の上から、海に面したグラウンドを見下ろしていた。
潮の香りと、浜辺へ降りていく生徒たちの姿。
かすかな笑い声。
海沿いの町ならではの、ゆるやかな朝の風景だ。
この高校には、少し変わった部活が存在する。
そう――サーフィン部。
陸地のグラウンドを使う部活とは違い、海が練習場になるという珍しさ。
しかも大会も県や全国規模であり、今はちょうどインターハイ予選を控えている。
俺はというと、中学の頃は特に部活に打ち込むわけでもなく、
派手に遊んでいたわけでもない、いわゆる“地味なタイプ”だった。
小学生のころに家族旅行で体験したサーフィンは、今でも「楽しかった」という記憶だけは強く残っている。
でも、本格的にやるにはなかなか踏み出せなかった。
理由は簡単。
やりたいことに踏み出す勇気がなかったから。
波打ち際を眺めながら、ふと考える。
もしあのとき、自分にもう少し行動力があったら、
いまサーフィン部に所属していたのだろうか……。
そう思いつつ、心のどこかで「やっぱり今のままが無難だ」とも感じている自分がいる。
◇◇◇
登校途中の出会い
コンクリートの階段を降り、校門へと向かう。
朝練中のサーフィン部員たちの声や、海の匂いがそこここから漂ってきた。
ふと後ろから、元気な声が響く。
「おはよう! 航平くん!」
振り返ると、同じクラスの**橘ひなた(たちばな・ひなた)**が駆け寄ってきた。
聞けばサーフィン部のマネージャーを務めているらしい。
「あ……おはよう、橘……さん」
「さん付けは変だよ! クラスメイトなんだし、普通に呼んでよ」
明るい笑顔が眩しい。
ひなたは、俺がさっきまで海を眺めていたことを知っているようだ。
「航平くん、海が好きなの?」
「……嫌いじゃない、けど」
曖昧に答えた俺に、ひなたは「ふーん」と興味深そうな眼差しを向ける。
「放課後、サーフィン部の様子でも見に来ない?
今、インターハイ予選を控えてて、結構ピリピリしてるけど……
マネージャーって言っても、私も色々大変なんだ」
誘いの言葉に一瞬戸惑う。
でも、その真っ直ぐな瞳に圧倒され、つい「考えてみる」と返事を濁してしまう。
胸が少しだけドキリとするのを感じながら、ひなたと別れ、教室へ向かった。
◇◇◇
ホームルームと部活の話題
教室に入り、ホームルームが始まる。
担任が全体への連絡事項を伝えたあと、ふとサーフィン部に言及した。
「篠田くんたちサーフィン部は、来月のインターハイ予選があるからね。
学校としても応援してる。けがや事故には気をつけるように」
クラスメイトの何人かは「すごいよね」「インターハイの常連らしいよ」などとヒソヒソ盛り上がる。
俺はどこか“別世界の話”のように感じながら、その様子を眺めていた。
すると隣の席の**大谷知樹(おおたに・ともき)**が小声で俺に話しかける。
「なあ、航平。
今朝、橘さんと話してたろ?
部活見学に誘われたとか?」
「……いや、ちょっと話しただけだけど」
「ふーん。ま、橘さんはサーフィン部のマネージャーだし、
航平が海眺めてたのを見て声かけたのかもな」
大谷はヘラヘラしながら茶化してくる。
「オレもサーフィン部の連中はよくわかんないけど、一度見に行ってみるのもいいんじゃない?」
――それもそうかもしれない。
せっかくクラスメイトに声をかけられたのに、一度も顔を出さないのも何だか悪い気がする。
そんなことを考えつつ、午前中の授業がスタートする。
◇◇◇
放課後――事件の火種
結局、放課後になると俺は大谷と連れ立ってサーフィン部の部室棟へ向かった。
本当に見学するつもりというよりは、「ひなたに顔を出す」程度の気持ちだったが……
そこで見たのは、部室前で騒然とするサーフィン部員たちの姿。
中心には、緊張した面持ちの先輩――篠田晃(しのだ・あきら)。
「篠田先輩……?」
慌てて駆け寄ると、篠田先輩は青ざめた表情でこっちを見る。
「俺の……ボードが……なくなった」
その一言に、まわりの空気が固まったように感じた。
サーフィン部のキャプテンである篠田先輩の大切なボードが消えた?
マネージャーのひなたも「えっ、嘘でしょ……」と唇を震わせている。
顧問の**黒川修二(くろかわ・しゅうじ)**先生も、
「ただ事じゃないな。すぐに探そう。盗難も考えないといけない」
と眉をひそめた。
盗難?
大谷が「マジかよ」と低く呟く。
俺も同じ気持ちだ。
(サーフィン部のボードが突然消える……?
そんなことってあるのか?)
◇◇◇
物置の鍵と謎
サーフィン部の部室とは別に、ボードを保管する物置小屋があるというので、
篠田先輩やひなた、数名の部員、そして黒川先生と一緒に向かう。
扉の鍵はしっかり閉まっている。鍵の破損もない。
にもかかわらず、中にあるはずの篠田先輩のボードだけが消えていた。
「……こんなの、どうやって持ち出したんだ?」
部員の一人がそう呟き、みんなが首をかしげる。
大きなサーフボードを物置から持ち出すには鍵を開ける必要がある。
鍵は顧問の黒川先生が基本管理していて、
部員やマネージャーが使用するときもいちいち先生に声をかけるという話を聞いていた。
それなのに、扉は壊されず、ボードだけが消えている。
まるで手品のようで、誰もが困惑を隠せない。
「警察にも相談を……」
一人の部員が言いかけたところで、黒川先生が「そうだな」と頷く。
「正直、盗難の可能性が高い。校内だけじゃなく、海岸や他の施設にも注意して探そう」
「な、何かあったら、すぐ連絡してください」
ひなたも深刻そうに呼びかける。
でも、その声はどこか震えている。
◇◇◇
ひなたの頼み
その後、部員たちは学校敷地内や周辺を探しまわったものの、
結局その日は何の手がかりも得られなかった。
夕方、みんなが帰り支度を始める頃、ひなたが俺と大谷のもとへ小走りで来る。
「ねえ……もしよかったら、捜索を手伝ってくれないかな。
……昨日は相沢くん、ちょっと海に興味ありそうだったし」
「そうは言ったけど、俺は部外者だし」
返事に詰まる俺を見て、ひなたは胸の前で手を握りしめる。
「でも、時間がないんだ。篠田先輩はインターハイ予選を控えてるし、
あのボードがなきゃ困るんだよ」
大谷が「俺はいいぜ、面白そうだし」と軽く乗り気を表明。
するとひなたは「ありがとう!」と力強い笑顔を向ける。
その笑顔に、不思議と断れない気持ちが湧いてくる。
(……ここまで本気で頼まれたら、やるしかないか)
「わかった。協力できることがあれば言ってくれ」
そう伝えると、ひなたは心底ほっとした様子で頷いた。
「助かるよ。ありがとう、相沢くん……!」
胸がドキリとする。
言葉にしなくても、ひなたが今どれだけ不安と焦りを抱えているかが伝わってきた。
◇◇◇
夕刻の空と、キャプテンの影
その後、ひなたや部員たちと一緒に校舎周辺や体育館裏まで隈なく回ったが、
何も見つからなかった。
気づけば日が傾き、校内も閑散とし始めている。
そんな中、俺は、校舎の外れで一人でうずくまっている篠田先輩を見つけた。
「……篠田先輩、大丈夫ですか?」
静かに声をかけると、篠田先輩はゆっくりと顔を上げる。
目の下には薄いクマができているようにも見え、疲れ切っている様子だ。
「悪いな。わざわざ気を遣わせちまって。
お前、相沢……だよな?」
「はい、同じ2年の相沢航平って言います」
篠田先輩は、やれやれという仕草で頭をかく。
「俺のボード……本当にどうしちまったんだろうな。
あのボードは特別な意味があるんだ。大会で使うだけじゃなく、
俺にとっての……」
そこまで言いかけて、言葉を呑み込む。
何か重い事情があるのは伝わってくる。
そんなとき、先輩が立ち上がるのを見て、俺はふと気づく。
彼が右足をかばうように立ち上がったように見えたのだ。
「先輩、足……もしかして怪我を?」
聞いてみるが、篠田先輩は「気のせいだよ」とそれ以上は語らない。
痛みを押し殺すような仕草に、何か無理をしているのではと感じたが、
深くは追及できない雰囲気だった。
(あのボードも、この足の怪我も……篠田先輩は色々抱えてそうだ)
しかし、今はまだ何も聞き出せない。
俺はただ「無理しないでください」と言うに留まった。
◇◇◇
一日の終わり――閉じ込めた想い
最終的に、この日は一切の手がかりが得られないまま、部活は解散。
みんな疲労感に包まれ、家路につくことになった。
昇降口で靴を履き替えていると、ひなたが駆け寄ってくる。
「今日は本当にありがとう。何もわからなかったけど、助かったよ」
「いや、俺こそ大したことしてないし……」
素直にそう思っていると、ひなたは寂しげに微笑む。
「でも、こうして協力してくれるだけで心強いんだ。
明日も……もし時間があれば、またお願いしていい?」
あどけない瞳が、不安そうにこちらを見つめる。
「うん……わかった。声をかけてくれれば」
ついそう返してしまう自分に驚く。
“押しに弱い”と言えばそれまでかもしれないが、
どこかで「一歩踏み出してみたい」という気持ちが芽生えている気がする。
◇◇◇
夜、家路にて
家に帰ると、部屋に入ってもなんだか落ち着かない。
ベッドに横になると、今日の出来事が頭の中でグルグル回る。
サーフィン部キャプテン・篠田先輩のボードが消失。
物置の鍵は壊されず、盗難の可能性が高い。
顧問の黒川先生は一見頼もしいが、どこか不自然さも感じる。
そして、篠田先輩の足の怪我は隠されているようだ。
「……何がどうなってるんだろう」
俺が考えたところで、簡単に答えが出るわけじゃない。
でも、ひなたや大谷と一緒に動けば、何か見えてくるかもしれない。
そっと目を閉じると、波の音が耳の奥で響いた。
――まるで「挑戦しろよ」と囁くように。
だけど同時に、「怖いだろう?」とも囁かれるような感覚がある。
どこかで、自分自身が“踏み出せない臆病者”だとわかっているからだろう。
「……寝るしかないか」
明日になれば、新しい何かが起こるかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりとまぶたを閉じる。
波の音を背に、意識が薄れていくとき、
心の中にほんの少しの期待と、不安が混じり合っていた。
――こうして、何の変哲もないはずの学園生活は、
サーフボードの失踪事件をきっかけに、大きく揺れ動き始める。
◇◇◇
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